【旅行記】1. 旅立ち前夜 (今回は写真がないので長文です、、、すみません。。。)

13年も前に行った卒業旅行。。。
何回シリーズになるか分かりませんが、本日より始めさせていただきます。
毎日連続というわけではなく、とびとびに今まで通り日記などを書かせていただきます。
というよりは、いつもの乱脈な書き込みの合間に旅行記をあげたいと考えています。


では!

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 1995年の初頭というのはいろいろと出来事の多い時期でした。まずは何といっても阪神淡路大震災です。夜明け前に襲いかかってきた衝撃に、近くのボロアパートに住んでいる友達は、怪獣が暴れたかと思ったと、真顔で言っていました。僕は隕石かと思いましたし、他の友人は戦争が始まったと思ったそうです。とにかく、あの朝、襲いかかってきたのが何であったにせよ、つかめるものにつかまって、鳴動が去るのを待つ以外、我々は何も出来なかったということは共通しています。
 
 
 ところで、僕がその頃、多忙だったのは、東京の大学の編入試験の準備、ポーランドチェコのヴィザの申請、旅行会社との連絡、友達とのやり取り、資金繰り、旅行の準備、レポートの作成、地震のボランティア、彼女とのデートなどなどが重なったためです。その中で編入試験だけが予想通り失敗に終わりましたが、他の全ての項目は万事うまくいきました。
 
 
 一つだけトラブルらしいトラブルと言えば、ポーランドのビザがなかなか手元に戻ってこなかったことです。ポーランド大使館に連絡するともう返送したとのことですし、一緒に行く友達に連絡するともう戻ってきている、と言います。郵便局に問い合わせても、既に配達している返事というです。
 

 となると、考えられるのはただ一つ、大家さんが受け取った後、すっかり忘れているのです。家賃を同じ日に二度も取りに来たり、僕宛の小包を自分の部屋のタンスにしまったりと、なかなか手数をかけてくれるおばあさんですから、郵便物を受け取っておいて忘れ去るなどという芸当は朝飯前のはずです。ポンコツ洗濯機の横にある扉を開け、来訪の旨を告げると、小さなおばあさんは、そんなものは来てない、どこにもない、手違いだと言い張ります。僕としては、パスポートがないことには旅行はおろか関空から出来ることもままなりませんから、そう簡単に引き下がれません。テレビの下の手紙入れを開けると(もちろん、おばあさんに「開けますよ」と断ってからです。僕は紳士で通っているのです)、僕の名前が書いてある茶封筒が堂々と入っていました。「おやまあ!」と目を丸くするおばあさんににこやかに笑って声を掛け、ゆっくりと扉をしめて、部屋に戻りました(しつこいようですが、僕は紳士で通っています)。


 旅の前々日には一緒に旅する友達が鳥取と広島からやってきました。翌日は梅田ロフトで最後の買い物をして、準備を整えます。飛行機の中でぐっすり眠れるように、徹夜でファミコンをするという念の入れようです。準備には手を抜くべきではありません。だいたい、旅行の準備というものは順調なものです。海を渡ってしまってから何がない、あれが足りないと嘆いても、それはその時点での持ち物が足りない、ということであって、旅行の準備の完璧さにおいては一点の曇りもないわけです。原発が《事故が起こるまでは絶対に安全》と言うほかないように、旅の準備は《落ち度が見つかるまでは完璧》なのです。
 
 一般的に申しますと、ドライヤーのコンセントの形状があわないとか、ひげ剃りの電池を買い忘れたとか、洗濯ヒモはあるが洗濯ばさみがないとか、そんなものは些細な、取るに足らないことです。南極やコンゴ盆地に行くわけでもないのですから、足りないと分かったら買えばいいのです。液漏れ寸前の現地語の電池とか、日本では役に立たない現地のコンセントのプラグなど、趣深い旅の思い出となるに違いありません。
 
 ところで、誰かと旅をするというなら、ドライヤーのコンセントとかひげ剃り電池のサイズよりも大事なのは、言うまでもなくそのメンバーの性状が自分に合うか、ということであります。これが合わなければペニンシュラ・ホテルもリッツもあったものではありません。ビジネス・クラスも湿った便器、星付きレストランもブタの餌になってしまいます。まして、いびきがうるさく、足がくさく、大酒のみで、のべつエントツのようにたばこの煙を吐き出している奴だったら目も当てられません。旅は流刑と化し、観光は懲役となります。航空会社をJALかアエロフロートかで迷う前に、同行者が《いい奴》なのか《悪たれ》なのか見極めるほうがよほど大切なのです。


 今回は、その点は全く心配することなく、とても楽しいものとなりました。旅の仲間は高校時代の友人たちであり、失恋、浪人、金欠などなど、自業自得によってもたらされる諸々の不運を乗り越えてきた仲であります。彼らとの出会いは、高校一年の秋口。気分の和む土曜日の昼下がり、何かの奇縁で器械体操部に遊びに行ったのが、僕の全ての不幸の始まりでした(他の二人は、その時、既に不幸でした)。
 
 
 鳥取県立T東高等学校器械体操部といえば、かつてはインターハイや国体に出場するなどして、華麗な経歴を誇ってきました。何人もの優秀な選手を輩出し、嚇々たる武勲を示す記念品や賞状の類いも少なくなかったのです。ところが、我々が在籍した三年間というのは、それらの閲歴を全て無に帰せしめ、更に数々の問題を起こして活動停止、部室使用禁止を繰り返すという乱世となってしまいました。
 
 
 そして、ついに我らが器械体操部は、数年後にその勇姿をクラブ登録簿から抹消されるという非業の最期を遂げたのです! とりわけその命数を削るのに尽力したのが我々が三年生のときで、有能な後輩を主犯共犯として来るべく消滅の日々に向けて心を砕いたものです。無論、理解深き顧問のN先生もその醜態に大いに一役買ったのは言うまでもなく、あれから月日が流れた今でも、季節毎に飲み屋に引きずり出される境遇にあられます(しかも美人で料理がうまい奥方まで巻き込むことしばしばです……)。
 

 旅のメンバーの片方はYといい、近隣のH大学の学生です。出身地はY郡M町というド田舎なので、我々はその辺境区を《異国》と呼んでいます。自称ナイス・ガイです。我々はタチの悪いプロパガンダだと思っているのですが、彼の扇動は執拗です。将来は故郷で教師になって子供たちに害毒を垂れ流したいと抱負を語っておられます(それから年月が経ち、彼はまんまと目標を成就したのですが、それで意気揚々かと思えば、自律神経失調症だの群発性頭痛だのと言ってはあやしいCDを買い込み、「若い頃の毒が全身に回り始めた。もうダメだ!」と日々嘆いておいでです)。
 
 
 そして、もう一方はTという男で、ちょっと類のない変人です。その当時は我らが故郷の某国立大学の教育学部に学籍を有し、教育学部のくせに余分な手順を踏まないと教員免許が取れないという、いわゆるゼロ免課程におられました。在籍学科は理数情報科らしいのですが、名前を聞いただけでは何をやっているのやらよく分かりません。ご本人曰く、
「去年は卒論書くのに山にこもって石をたたいてたんだが、なぜか今年は研究室でギャルと一緒に服の研究をしとる。全く不思議だぜ!」。しかし、私としては、何で卒論を二度も書く機会があるのかということのほうが不思議です。帰国後しばらくはミニ・クラブマンという異国の車を乗り回しておられましたけど、フロントガラスのヒビに苦悩し、ガソリンホースの切断に生命を脅かされ、ワイパーとウィンカーのレバーが左右反対なのに煩々悶々としておられたようです。


 今回の旅は、卒業旅行と銘打っているとおり、三人が同時に大学を卒業することを見込んで企画されました。出立直前にも関わらず、卒業確定はYだけという有様だったので、思いつきの企画だと言われても返す言葉がありません。また、我々の経歴をご存知の方々は、どうして大学に入学した年が違うのに卒業は同じなんだ、と不思議に思われるかも知れません。でも、ここには偶然という思慮深い自然の法則が働いていて、我々をこのような境遇に置いたのだとしか申し上げようがありません。我々はその運命を粛々と受け入れるのみなのです…… 


                                                          〈続く〉