【旅行記】Vol. 19 カトヴィツェ(ポーランド)2

masatomo-s2008-05-07

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すみません……ちょっと間が空きましたが是非ご一読の続きを。。。

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 B氏が母上と暮らしておられるアパートは、広い部屋が幾つもある豪壮なものでした。家具も光沢のある上等なものばかりで、全体的に重厚な雰囲気です。どの部屋を取ってもセンスのよさが光り、調度の一つ一つが一生ものだという感じです。せめてソファくらい、僕の部屋にもしつらえたいものです。寝るところがなくなってしまいますが、細かいことを気にしてはいけません。
 
 
 母上が迎えてくださり、簡単な夕食を取ることとなりました。実は朝から食べていないので、お腹はぺこぺこです。母上が作ってくださったじゃがいもを素材にしたプラッターとケーキがとても美味でした。それからボリス・エリツィンとロシア語で書いてあるウォッカをいただきました。ウォッカはロシアが有名ですが、ポーランドウォッカも高名です。
 
 
 しかしながら、僕は、モスクワ時代にウォッカを痛飲し過ぎてひどい目に遭ったので、それからめっきりウォッカは苦手です。モスクワ大学生物学部のサーシャというロシア人と仲良くなって、学生寮ウォッカの飲み比べをやったのが間違いのもと。その頃は現役の應援團幹部として、お酒にはそれなりの自信があったのですが、1本半あけた時点で僕は意識を失ってひっくり返ってしまい、そのままベッドで朝を迎えた、という次第です。その日の頭痛ときたら生まれて初めてというほど猛烈なもので、應援團でOBの方々に蹴飛ばされながら飲んで陥った二日酔いなど比べ物にならないほどのひどさ。吐くは胸をかきむしるはで大変な騒ぎでした。騒いだのは僕だけでしたけど。
 

 ところで、本日はB氏の誕生日だとのこと。そこでY氏がワルシャワで購入したお土産の小ギターで『愛のロマンス』を奏でました。『禁じられた遊び』のほうが知られた名前ですね、この名曲。久々のギターとのことですが、自称中世の元貴族としては上出来の演奏でしょう。現代の日本に生まれて日々子供たちに悩む直前は、あやしい吟遊詩人として世界を遍歴していたのかも知れません。
 
 
 時間が差し迫って参りました。プラハ行き寝台急行《シレジア》はカトヴィツェ発午後10時20分です。いま9時55分なのでもう出掛けないと乗り遅れてしまいます。母上と名残を惜しみ、来た道を大股小走りで戻って、電光時計の輝く駅に入るとすぐに我々はホームに向かいました。着いてすぐ寝台列車の入線です。3人は順々にB氏と握手して、Yが原爆ドームのホルダーをお土産に渡しました。コンパートメントに入り、列車が動き出して、彼は視界から消え、僕らも窓を閉めました。


 これでポーランドともお別れです。